「オホーツクの食と農」へのメッセージ
地域自給は自給率向上のカナメ
東京農業大学生物産業学部 美土路知之
1998年以来40%に張り付いたまま低迷を続ける食料自給率への危機感と、食料の安全・安心を求める国民の切実な要求とが一体となって、「草の根」からの取り組みがかつてない広がりをみせている。「食と農」のあり方を問い、顔の見える信頼関係の構築をめざして、多様な国民食料運動が燎原の火のごとくに巻き起こりつつある。
北海道においても、生産者グループ、消費者グループほか、個人・組織を問わず、さまざまな層が参画した多様な「食料運動」が展開されている。地産地消、スローフード、心土不二…、いずれも地域の「農」に立脚して地域の「食」料消費を追求する活動として支持と共感を獲得している。
十勝に次ぐ畑作地帯として、網走(オホーツク地域)は永らく畑作三品(馬鈴薯、麦、甜菜)を中心とした原料農産物が基幹作物生産が展開してきた。大面積経営と大型機械利用に体系づけられ、収穫された農作物は、工場で処理・加工されて全国的に流通している。また、玉ねぎや大根、人参、ごぼうなどの畑作三品を補完する野菜類についても、札幌や本州の大消費地にむけて出荷されている。だが、そうした産地展開は、地元での流通消費への関心事としては顧慮されにくい傾向にある。出荷業務をになう農協系統でも、非効率や零細な消費ロットを嫌うため、地元消費向けには本腰が入りにくい。
ところが、輸入食料の急増や産地間の出荷競争が激化して、大ロットや効率生産の市場原理志向だけが生き残りの唯一の方途ではないことに目が向けられ始めている。地域の「食」や消費者に目が向けられ始め、くだんの地産地消やスローフードなどへの共感と参画の取り組みが進展をみせている。
それらは、生産者と消費者の直接取引の産直運動や、地元の青空市場、給食や地場食レストランなど、多様な取り組みが展開されいる。その根底にあるのは、「安心安全」や「顔の見える」関係構築などであるが、同時に、地域住民(これには消費者だけでなく農民や流通加工の業者すらも含まれるだろう)が、自らの意志として「食」や「農」の結びつきに関心寄せ、重視している点でも注目される。
オホーツク地域ではこうした取り組みとつながりは、全道的に見ても早い時期から実践されてきた。なかでも、注目されているのは地元食材を利用した学校給食の取り組みである。われわれはこうした取り組みを追跡し、発展と広がりのプロセスを整理し、逆に地域への提案を行った経緯もある。そのことについて少し紹介してみよう。
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(1)地元食材を利用した学校給食の取り組みの発端
それは20年近く前、北見市内の小学校の給食現場(栄養士)の発意から出発してる。自らの勤務する小学校の生徒に、元気で美味しく給食を食べてもらおうと、郷土食や旬の食材を紹介したメニュー開発などに取り組み、その一部に地元の食材(野菜類など)を位置づけて、児童に好評を博した経緯に端を発する。やがてそれは、地元産の食材の利用度をたかめ、小売業者や有機栽培の農民グループなどとの関係が深められていった。
(2)地元食材利用給食の広がりと深化
こうした単発的な取り組みは、やがて組織立った運動としても底辺部を拡大することになる。栄養士間の情報交換と連繋が、地元食材利用型の学校給食の交流を生みネットワークを形成していく。そして、取扱品目の上でも馬鈴薯、玉葱、白菜などの重量野菜から菜っぱものやトマト、キウリ、ピーマンと増え、さらには乳製品や、地粉パンなどへと品数が拡大されていった。くわえて、そうした取り組みを実施する学校も複数展開し、増加する需要量に応えるため、生産者が仲間を拡大して学校給食向けの農産物供給を少しずつ増やし始める。
(3)取り組みの発展・拡大の条件
こうして、当初は栄養士と農家の一対一の相対から始まった取引も、小売店のバイヤーの協力を得ながら、複数校・複数農家の取り組みへと発展する。その基礎には、地域での「食」と「農」の結合と、信頼関係の深まりが進んだ点で重要である。こうして、それぞれの現場(農民と栄養士)での個人的出会いから、やがて地域的な結びつきへと発展していっている。その原点には、子どもたちに地域の「食」のこと「農」のことを伝え、安全で安心して食べさせられる食材を提供する願いに根ざしている。さらに、こうした地域連携を強化する上で、行政(農務課)などの橋渡しの役割あとから加わり、この取り組みは大きく広がる。
(4)見えはじめてきたさまざまな課題
だが、その一方で課題も散見されている。第一は、個々の給食現場(厨房)の一回の利用量は数十キロ単位であるのに対して、供給の側では数トン単位の出荷であること。つまり、一校分の馬鈴薯の年間使用量が一軒の農家の生産量程度で収まる。その意味では、需要サイドと供給側とでは量的なミスマッチは埋めがたく、概して農家側の理解や善意によって協力関係が維持される状態にある。第二に、馬鈴薯や長ネギ、人参などのいわゆる「土モノ」は衛生管理上、調理場にそのまま持ち込むわけにはいかず、土落としや皮むきなどを済ませてから調理場に搬入しなければならない。これも多くは農家側が負担する「出荷労働」部分となった。さらに、第三として、給食費のコスト的制約から、取引価格の折り合いや、輸送や搬入前の下拵えのコストも農家側の協力と善意に任せられがちである。そうした地元負担をどう解消するのか。などの問題が浮かび上がっている。
労働、コスト、ロットなどにわたって、給食現場ができる負担はなるべく分かち合うように心がけられているが、まだ決め手となる解決策を見いだすには至っていないのが現状である。ただ、これまで生産者の個人的負担に任されてきた部分を、地元農協あたりでも協力(生産者や食材に必要な品目をつなぐ役割)的になってきた点は、これからの明るい材料とし注目される。
こうした地域的な食料運動ともいえる取り組みに対して、かつて地域住民や関係者をあつめた研究会で、「地域に根ざした学校給食と食材の出会いをもとめて〜共生・共育・共食のオホーツクめざして〜」(オホーツク地域自治研究所「第一回地域創造フォーラム」1999.2北見市)では地域への提言事項として四点を提案したことがある。
すなわち、第一に、「地元産の馬鈴薯、玉葱、人参をさらに利用するためのメニューと応用範囲を拡充してはどうか」ということ。これらは北海道内でも地元産食材として学校給食への利用度の高い代表品目(70〜80%の利用率)であるが、この利用率をもっと上げようという提案である。さらに、これ以外の農産物や畜産物・乳製品やその他の地場産物(小麦粉製品、調味料、貯蔵食品)についても少しずつ「テストケース」を積み重ねて実用にメドをつける努力を進める点も併せて提案した。
第二には、食材需給をスムーズにするための協議・調整機関や組織のテーブルを位置づける提案をしたことで、これには北海道(網走支庁)や北見の市役所(教育委員会と農務課)はじめ農民団体や学校給食現場(おもに栄養士グループ)との話し合いや、実質的な支援策などについて検討されている。とくに季節変動にともなう需給バランスを調整する機能や安定化対策には、こうした協議・調整の果たした力は大きかった。しかも、生産者側にとっては、単にモノ(農産物⇔食材)の取引といった経済関係にとどまることなく、地域の「食」や「マチ興し」にわたって、活性化されることの意義は大きい。その実現にむかって少しずつ前進する兆しが見えてきた。
第三には、食教育の計画を構築するために、学校と地域の連携をいっそう緊密にすることを提案した。学校で進められている「総合教育」と「食農教育」を結合して、作物栽培や作業体験(収穫や豆のサヤ外し、選り分けなど)の具体的なプログラムやアクションが展開されている。それは同時に、給食現場と教師(学校側)と地域(父母や生産者)の相互理解と協力が決定的に重要な役割を果たすであろうと指摘した。またそのための親子作業体験やフィールド実習など、全国的な成果にも学ぶべきところは大きい。この点ではさらに、意識的な取り組みの積み重ねが重要であろう。
第四には、地域住民の意思決定(地域のことは地域で決めるの合い言葉がある)に立脚して、地方行政や政策との補完関係と連携をが大きなポイントとなることを指摘した。地域食材確保と開発のために、北海道、および市町村の地域農政や関連企業の振興策などとも連動させ、「タテ割り」によらない、ネットワーク型の地域連携と協同の可能性を追求することを求めた。
これらの地域提案は、その後大きな成果を上げている点と(第一、第二)、まだ将来的課題として発展途上にある取り組みに留まっているもの(第三、第四)に分かれるが、一つの方向性を示しているといえよう。
もともと、北海道は農業の生産・出荷の規模が大きく、地域の消費とは隔絶的にロットにギャップがあることや、耕種農業の季節性(収穫期が短期間に集中し、端境期が非常に長い)なども、小規模ロットの地場消費には不向きで、「地産地消」的な需給関係は問題にもされてこなかった。しかし、学校給食や地元消費の拡大運動などが定着し、前進するなかで、わずかではあるが地域自給の流れが根付き始めた点はこれからの展開に一筋の光明を与えるものではなかろうか。少なくとも、大量生産・大量消費は大量浪費をともなうし、最終的には資源循環や環境保全に大きな桎梏となるし、持続的な発展は叶わない。そうしたときの「もう一つの」生き方としても、地域的な生産(加工流通も含めて)消費の取り組みは、持続可能社会への一石となるにちがいない。
なお先に紹介したフォーラムでは学校給食と食教育の問題によせて、灰谷健次郎の一文を紹介して問題提起に添えた。
「食育の対する関心が高まっている。いまや「崩食」ともいえるほどに危機的状況を呈している食生活。とりわけ子どもの「食」と心身の健康との関連は、深刻な問題として大人の社会に突きつけられている。日本の食と農のひずみは、この国の将来にとって楽観を許されない事態にいたってきているといえよう。
わたしにすれば、このごろ、ようやくという感じなのだが、全国各地で「食の安全性と検討」とか、「食と命と農村を見直す」とか、「子どもの食生活を考える」などというテーマのもとで集会が開かれたり、キャンペーンやシンポジウムが持たれるようになった。
ビタミンやミネラル等必須栄養素が少なくて、カロリーばかり高という悪い食品を多食させられ、その上、残留農薬の危険にさらされているという二重苦を子どもたちは受けている。子どもは知識でもって食品を選ぶことはできない。子どもが何を食べるか、何を食べているかはいっさい大人の責任である。」(※灰谷健次郎「子ども受難のこと」(角川文庫『林先生に伝えたいこと』より)
こうした、論評がいまますます重要な意味を持ち始めていることを改めて受け止めるべきであろう。 |