「シンフォニーファームと動物たち」にご登場いただいたいちろうさんのご紹介で、鯨捕りの名人にお会いすることができました。網走にお住まいの杉本さんです。
1988年、日本沿岸でのミンククジラ・ニタリクジラ・マッコウクジラの捕獲禁止が決定されましたが、クジラの種類・時期・捕獲頭数を制限した小型沿岸捕鯨はここ網走のほか、本州の3ヶ所で細々と行われています。
つい先月、オホーツク海でわずか2頭のみの捕鯨が行われましたが、かつては全国でも有数の沿岸捕鯨基地であった網走も、規模が大幅に縮小され、その歴史さえ消えかけようとしています。
杉本さんのお話を聞くことで、少しでも網走の捕鯨の歴史を誰かに伝え、残せたらと思い、今回おじゃましました。
大正15年生まれ、76歳の杉本さんは、戦時中海軍機関士として出兵していました。19歳の時に終戦を迎え、それからは網走に戻って調査船などに乗るお仕事をされていました。
42歳からは捕鯨船の機関長として活躍され、その後ツブやメンメ漁で数年前まで船に乗り、今は引退されています。当時の捕鯨の様子をうかがいました。
身の肉‥水菜と一緒にはりはり鍋など 尾の身(尾の付け根辺りの肉)‥霜降り肉のような味、刺身、寿司など
ベーコン‥(鯨の下顎から腹部にかけての縞状の部分を畝須とよび、それを薫製加工したもの)生姜醤油、芥子醤油などで
コロ‥(皮の油を抜いたもの)おでんの具に
内臓‥ホルモンのように焼いて食べる
おばけ・おばいけ(尾羽毛・さらし鯨、尾の部分のスライス)刺身など |
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店頭や食卓にあまりのぼらなくなってしまった鯨ですが、その頃は食べきれないほどの鯨がとれ、漁の後、杉本さんの奥さんは近所の家にお願いして食べてもらうのに大変だったとか。
捕獲禁止が決まるまで、杉本さんの乗った船ではミンククジラ約60頭、ツチクジラは約30頭くらいを捕獲したそうです。
杉本さんの担当は船の運航と、鯨を見つけることです。吹き上げる潮と、長年の勘で鯨を探しだし、見つけるといくらかのボーナスがもらえたのだそうです。杉本さんもかなりの確率で鯨を見つけたそうです。鯨の種類は潮の吹き方で見分けます。(例えば‥マッコウクジラは2つの穴があるので、2ヶ所から潮を吹きます)
鯨を見つけたら、船を近づけ内臓をめがけて銛を撃ちます。鯨は皮が厚く、内臓に銛がしっかり刺さらないと逃げられてしまいます。しかし鯨の泳ぐ早さは30〜40km/h。船はそれ以上の早さで追いかけることができます。鯨は追われるうちに苦しくなって、息を吸うために海面に立ち上がることもある、と杉本さんはおっしゃっていました。
そうして捕獲した鯨は、すぐに専門の人の手によって解体されます。鯨は他の魚と違い大きく難しいので、下手な人が解体すると身に何度も刃を入れてしまって傷が付き、売り物にならなくなることもあります。
杉本さんは解体の名人でもあったので、10mくらいの小さな鯨なら一人で30分ほどで済ませることができたのだそうです!
9月に網走港で行われたツチクジラの解体は、10mの大きさの鯨を30人がかりで1時間ほどかかりましたから、その早さは比べものになりません。ぜひ当時の解体の現場を見たかったものです‥
戦前から戦中にかけて、鯨は重要な動物性タンパク源として、日本ではさかんに食べられていました。「食べられない部分はない」といわれるのも、この頃ならではのことで、当時主流だったミンククジラは、現在出回っているツチクジラに比べて味が良かったのと、食糧難の時代を鯨が支えていたということがあったからです。今では内臓まで食べることはあまりなく、廃棄処分をしてしまうのだそうです。
今でも鯨が捕れた時は、網走市内のスーパーなどにお目見えします。お寿司屋さんにもツチクジラのにぎりがお品書きにちゃんとあります。
嬉しそうに鯨の話をされる杉本さん。網走の港が活気づいていた頃のことが想像できます。現在も漁業は網走の基幹産業の一つですが、鯨があがる港町は今よりもっと元気があり、にぎわっていたことでしょう。 |
捕獲枠が制限される中で、収益にならずとも捕鯨を続けていくのは、やはり捕鯨という文化の火を消さないためです。解体を見ていた子供たちの「おいしそう」という声が、網走の捕鯨の文化なのだと思います。杉本さんの活躍していた時代が単なる昔話になってしまわぬよう、網走の漁師たちは今も努力を続けているのです。
9月の鯨解体のようす |